2014年御翼3月号その4

ハンデをもつ子がクラスの宝―水口 洋先生

  

 水口 洋先生(玉川聖学院中高等部長)の著書『風と出会う―ミッションスクール教師として―』に「ハンデをもつ子がクラスの宝」という章がある。その中で先生は、障害をもつ子どもたちは不思議な力を持っていると言われる。

 同じ感覚であることが当たり前、違っていることが許せない、受け入れられないという子どもたちが、増えてきているようにも思えます。「いじめ」の背景に、こういうこともあるのではないかと思っています。しかし、障害をもった子がクラスの中にいることによって、このような問題を解消させる力をもつことになるということを発見しました。目や耳、内臓や手足に障害をもつ子たちが、中等部に入学してきます。実際にいくつかのクラスで起こっていることを見て、本当にこの子たちがクラスの宝だなあと思っています。
 クラスメイトとして障害をもった生徒と接することで、生徒たちは不思議に優しい気持ちをもち、心の響き合いを体験するのです。日常生活の中で、車椅子を押し、手を引き、一緒にゆっくりと歩くことで、それまで自分で見えなかったものが見えてきます。弟子たちが生まれつきの目の見えない人を見て、「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」と質問したとき、イエス様が「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです」(ヨハネ九・三)と答えられたのは、ただその後に奇蹟を行うためだけではなかったと思います。まさに、障害をもつその人が、神の栄光を現している、その人の存在自体が大きな恵みとなっているという事実が語られているのではないかと思います。
 彼らの存在が、大きな影響力をもつのは、生活の場である学校において、彼らのもつ品性に出会うからではないかと思うのです。総じて体の障害をもった子の中に、心の健全な子たちが多いことに気づくのです。例外もありますが、多くの場合、小さいころから人との関わりの中で育てられ、他人の好意を受けることに慣れている、他人に対して心を開いている生徒が多いように思います。私たちはだれ一人として、自分だけで生きることはできません。多くの人に支えられています。けれども、自分で何かができると、自分だけで生きてきたという錯覚に陥り、周囲を自分の尺度で評価したりしてしまいます。そして、素直に他人の善意や行為を受けとることができなくなってしまうことがあるのです。ところがいつもニコニコして、「ありがとう」と言って周りの友達の世話になることができる子は、心が純粋で素直に感謝できる、柔らかい心の持ち主であることがすぐにわかります。そして、その純粋さが、周囲の心の傷を癒していく力を発揮するのではないかと思うのです。冷たい心を溶かし、人に対する警戒心を和らげ、心の鎧(よろい)をはずさせるのです。
 更に、障害をもっている生徒たちに見られる、自分を受容しているあり方から学ぶことが多くあります。ハンデは、ある意味で一生のものです。しかし、それを自分に与えられた個性・特徴として受けとめている姿から、教えられることが多いのです。
 以前、私は一人の卒業生の結婚式に参列しました。少し身体的な障害をもったL子は、嬉しそうにメインテーブルに座っていました。彼女は明るい生徒で、人の気持ちを理解することができる優しい生徒でもありました。困っている生徒、悩んでいる生徒の傍らにいつも近寄っていき、よく話を聞いてあげていた姿が印象的でした。音楽が大好きで、自分で数々の曲を作りましたが、作られたメロディの中には、彼女らしい繊細な柔らかい感性が満ちていました。次々に述べられる祝福のことばに、涙が切れない披露宴でした。隣には、優しそうな新郎が、これも嬉しそうにスピーチを聞いていました。おそらく、彼も彼女によって癒しを受けたのだろうと想像される良いカップルの誕生に、思わず私の胸も熱くなりました。そして、築かれる新しい家庭の上に神の視福がいっぱいにあることを心から祈ったものでした。

 群衆の中の弱い者にも目を向け、その賜物に気づき、皆と同じように愛される水口先生は、イエス様の心を持つ素晴らしい教育者である。

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